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長岡禅塾物語 第六話「京都哲学との因縁」

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禅が日本文化に多大の影響をあたえたことは鈴木大拙の『禅と日本文化』などでも紹介されているが、禅(体験)が日本哲学の基盤となったことは、いまでは余り知られなくなってきているかもしれない。

 

古代ギリシアに淵源する哲学(フィロソフィ)はその後、各国に広がりそれぞれの国において独自の展開をみせた。

例えば、ドイツではドイツ哲学、フランスではフランス哲学、イギリスではイギリス哲学と言われるふうに、その国民性に応じてそれぞれ特色ある哲学を発展させてきた。

日本に哲学(フィロソフィ)が広く伝わったのは明治以降のことであるが、この哲学(フィロソフィ)を自らの禅(体験)を根底に据えることによって新たに構築しなおし、真に「日本の」哲学と呼びうる独特の哲学を打ち立てたのは西田幾多郎(1870年~1945年)であった。

以後、日本哲学の主流は西田幾多郎を学祖として展開するが、この学派はその拠点であった京都の名を冠して京都哲学、あるいは「京都学派」の呼称で世界でも広く知られている。

京都哲学は多方面に展開された(『京都哲学撰書』全三十巻、燈影社)が、宗教哲学の部門は西田幾多郎の後、西谷 啓治、上田閑照先生へと引き継がれていくことになる。

 

長岡禅塾は京都哲学のこれら三人の先生と不思議な因縁の糸で結ばれているように見える。

今回はこのことに関する話である。

(西田の猛烈な禅修行の様子は彼の「寸心日記」に詳しい。なお、「禅と京都哲学」については、上記『撰書』別巻を参照していただきたい)。

 

まず第二世森本省念老師についてであるが、よく知られているように老師は京都帝国大学で西田の薫陶をうけた高弟のひとりであった。

老師はもともと三高英文科の出身であったが、そこから京大の哲学科に進み、西田に師事したのは根底に安心(あんじん)の問題があったからである。

最近、老師の若き頃の手紙が見つかった。

それによれば、「ヒューム、カント、ベルグソンなど西洋のものには心を慰むるものがない」とあり、続けて「禅は見当がつかないが、われわれの問題を解決してくれるとセンスできる。

独山の提唱〝昨日は雨、今日は晴〟からでも[問題の解決口に]入れると聞いた」と、あるそうだ(浅井義宣老師談)。

それによれば、森本老師が当時親しんでいた西洋哲学には「心を慰むるもの」、換言すれば「安あん心じんさせてくれるもの」がない、しかし禅にはそれがありそうだ。

そのように予感して老師は禅と哲学の両方を視野に収めた哲学者西田の門に下ったものと思われる。

その際、老師の愛したものは西田の人格であり、その人格と結びついたかぎりでの哲学であった。

 

西田哲学は難解で知られる。

言説を追えば、しばしば鬼窟裏(きくつり)に陥ることになる。

しかしそうであるにもかかわらず、その哲学には不思議な魅力がある。

それは西田哲学の根底にして同時にその人格の根底が無であったからである。

もともと求道の人であった森本孝治は哲学する西田を通して、孤峻にして慈愛あふれるその人格に魅了されたのである。

森本老師が西田について書いた短い随筆が残されている(『禅 森本省念の世界』所収)。

題して「私の西田先生」という。

この表題の特に「私の」に、森本老師の恩師西田に対するかぎりなき敬慕の念が込められているように思われる。

そのように森本老師の心は常に西田に寄り添っていた。

森本老師の写真として、西田の墨跡「心月孤圓光呑万象」を背景にして瞑想する姿を写したものがよく使われるが、その写真などはそのことを象徴的に示しているように見える。

「私の西田先生」から一節を引用しておこう。

 

「出家して法衣姿で参上のとき一見乃ち曰く、おヽ森本、和尚さんになったなあ、御供養をしようか、と、それは私が哲学研究の落伍者たる事をあわれむ言葉、よく思い切って抜け出したとの褒め言葉、出家は供養を受くるに足る梵行を修せねばならぬぞとの誡めの言葉、先生はやはり仏教圏内の方だと感知しました。先生には何処か隠者の趣があって、家に在って家を離れ、何ものをも突き破ってゆくと云った匂が漂うてゐて、それが私を励ましめるのです。(中略)先生は出家についてあこがれを無意識裡に包蔵してゐられたのではあるまいかと思はれます。」

 

第三世浅井義宣老師の場合はどうか。

老師の提唱時、ほとんど毎回といっていいほど出てくる固有名詞がある。

それは西田幾多郎の名である。

その際、老師も「西田先生」と敬称を付けてその名を呼ばれる。

浅井老師はもちろん西田から教えを受けられたことはないし、面識もないはずである。

それにもかかわらず「先生」と言われるのは、浅井老師もやはり西田に対して畏敬の念をもっておられるからだろう。

それには師匠森本老師の影響が大きかったと思われる。

 

しかし浅井老師自身もともと哲学(フィロソフィ)を好まれた。

老師は次のように言っておられる。

「私は若いころ西洋哲学に憧れました。なぜかというと、ただ生まれて老いて死んで行くというだけではおもしろくないと感じ、何かおもしろい世界はないかということで、たまたまギリシア哲学に触れた時に、哲学そのものよりも哲学者の生き方に心を打たれたからです。」

それはどのような生き方であったかというと、「権威や財力という人間の価値の範囲内に頼っているものを蹴飛ばし」、逆境に遭っても洒洒落落としていられるような生き方であって、「このような人生を送れることは、素晴らしいことだと思った」と。

これらの言葉から、若いころの浅井老師には根底に生死の問題があって、そのことによって哲学(フィロソフィ)を好まれるようになったと言えそうである。

 

さらに、もうひとつ付け加えるべき点があるように思う。

それは老師の「理」に対する関心である。

老師は法理ということをよく言われた。思うに公案をただ透るだけではいけない。

仮に公案が透っても法理が分らなければ、その透過は偶然的であることを免れない。

それでは肚に落ちないのである。

 

浅井老師には「理」に対する関心が一貫している。

そういう関心が老師の哲学(フィロソフィ)愛好の背後に潜んでいると思われる。

つまり、老師は法理を大切にされるのと同じように哲(学の)理も愛されるのである。

その際、哲理は法理を大衆に説く財となる。

以上のような理由によって、浅井老師が哲学フィロソフィに深い関心をもたれるようになられたとしても、しかし、それだけでは老師と京都哲学との間に独自の関係が存するとはまだ言えまい。

その点で最初に指摘しなければならないのは、老師が8年間もの間(正確にはアメリカでの修行を挟んで、前6年、後2年)、京大で西谷啓治の宗教哲学の講義を聴講しつづけられたという事実である。

老師級の人が大事了畢の後に大学で学ばれた例は、例えば慶応義塾で2年間修学された釈宗演老師のような場合もあるが、8年という長期にわたるようなことは他にもあるのかどうか、私は寡聞にして知らない。

 

当時、西谷は老師の聴講期間中ずっと「近世における自我の自覚」という題目の下で講義をつづけていたようであるが、何年間も同じテーマで講義をつづけることのできる哲学者西谷の思索力に驚嘆されるとともに、他面、「しかし……」「しかし……」と弁証法的に議論を展開されるそのようなやり方に対して、禅僧の立場から「あれでは決着はつかんわなぁ」と不満を漏らされたこともあった。

けれども老師は西谷の講義を通して、西洋における大きな思想の流れとともに西洋独特の思考法を学ばれたに違いない。

だから長岡禅塾において法系(相国寺系)とは別に学系(京都哲学系)というものを想定し、学系上は自らが西谷啓治につながるものとされている。

 

西谷の場合に比べると、上田閑照先生とは相国寺僧堂で大津瀝堂老師に参禅していた時期が重なっていたこともあって、より親しく交われていた。

そのことをもっともよく示しているのが「禅と神秘主義」をめぐる両者の対談であろう(『禅の世界』理想社、1981年)。

そこでは、日本におけるエックハルト研究の第一人者でもある上田先生の西洋神秘主義についての説明に対して、浅井老師が禅の立場からいろいろと問答を仕掛けられるというふうに対話が進行するのであるが、全体として非常にレベルの高い内容になっているにもかかわらず、その場の雰囲気がいたって和やかで、いかにも知音どうしのやり取りのように感じられるのである。

 

このように書いてくると、浅井老師のことを理の勝った学者風の方だと勘違いする人がいるかもしれない。

しかし、実は全然そうではないのである。

確かに老師は「理」を好まれるが、それはいわゆる理を超越した――老師のよく使われる言葉でいえば、脱落した――「理」である。

したがって、理性ということを言うならば、老師はいわゆる理性の人ではない。

むしろ普通の意味の理性を脱落した脱理性の人というべきである。

禅僧として当然のことではある。老師は実に洒洒落落底の人である。

 

最後に、私の場合はもっぱら上田閑照先生に縁の深かったものである。

先生は私が大学院を修了するのと入れ違いに、京大の教育学部から文学部の宗教学担当教授として転任されてきたので、私の直接の指導教官ではなかったが、しかし大学院終了後の数年間、先生の演習の授業にださせていただきご指導をうけた。

先生からは厳密かつ緻密な学的研究のしかたについて多く学ばせていただいた。

そんなこともあってか、有難いことに先生には就職のお世話までしていただいた。

そればかりでない。

その後の人生の節目節目に先生に相談にのっていただき、そのつど貴重なご助言を頂戴した。

 

学問の方では平田精耕老師の創設された「禅文化研究所哲学研究班」にそのメンバーの一人として誘っていただき、西田幾多郎、鈴木大拙、久松真一、西谷啓治についての研究に参加させていただいた(『禅と現代世界』1997年、禅文化研究所)。

さらに、この研究班が解散した後、上田先生を顧問にお願いし、私自身が世話人となってできた「京都哲学研究会」では、毎回わざわざ貴重な時間を割いて出席していただき、会の運営全般にわたっても細やかなご指導をいただいた(既出『禅と京都哲学』)。

このように私は公私ともに上田閑照先生にお世話になってきた。

 

以上、京都哲学の先生方と長岡禅塾との因縁について述べてきたが、見てきたような両者を結ぶ一筋の糸は、禅の世界において法系は大切であっても学系は元来問題にならないから、まったく偶然的なものにすぎない。

ではあるが、折角できた糸である。

切れたら切れたでそれでもかまわないが、反面でその糸が禅塾の特色のようなものになっていけばと思わないこともない。

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